10月25日は、善信寺四世の快應和尚の、そして翌々日の27日は十三世の信應和尚のご命日でした。当日はそれぞれに大悲呪一巻を諷誦し、回向いたしました。
四世の快應(かいおう)和尚は、諱(いみな)を善哉(ぜんざい)といい、回向する際には「当山中興四世 快應哉和尚大禅師」と読みます。「中興」というのは、善信寺を開かれたご開山さま以来初めて本堂を新しくされた住職に付けられる称号です。つまり、無住の荒れ寺であった善信寺を開山 江雲善甫禅師大和尚が臨済宗の寺として新たに開かれ、その後新しく本堂も建てられた方が快應和尚というわけです。快應和尚は元禄2年、つまり1689年に亡くなられました。三世和尚の没後すぐに住職になっていたとしたならば、住職在位は40年ということになります。今年は336回忌ということになります。
元禄2年といいますと江戸時代であり、五代将軍綱吉公が将軍職に就いており、松尾芭蕉が「奥の細道」の旅に出た年だそうです。その2年前には「生類憐みの令」が出ていて、13年後には赤穂浪士の討ち入りがありました。
十三世の信應(しんのう)和尚は、残念ながら諱の前一文字が伝わっておりません。禅宗のお坊さんを回向する際に、たとえば四世さんですと、本来は道号の「快應」に諱の「善哉」を続けて「快應善哉和尚」と言うのですが、諱の一文字め、つまり「善」という字は省略して、「快應哉(かいおうさい)和尚」と言います。四文字全部で読んでもらえるのは開山さまのみで、あとの二世さま以降は、開山さまに遠慮して一文字を省略するのです。それでも略した一文字は寺の歴史として伝わっているのですが、どういうわけか、十三世さんのみ、この略した一文字が伝わっておりません。とても残念なことです。あるいは本山である方広寺さまにうかがえば、当然住職の届けはなされていると思われますので、諱も残っているのかもしれません。面倒なお願いになりますので、また機会を見て、ご指導願いたいと思っております。
寂年は明治8年 1875年で、十四世和尚から切れ目なく住職になられたとするならば、住職在位は12年ということになります。あるいはお若くして亡くなられたのでしょうか。没年齢までは伝わっておらず、そのあたりも知りたいところです。
1875年と言いますと近代であり、4年前には廃藩置県もありました。翌年は廃刀令も出され、翌々年は西南戦争です。排仏毀釈もこの時代のことですね。時代の移り変わりが激しい時代に護寺されるにはご苦労も多かったことと思われます。ありがとうございました。