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当山再中興十六世東明瀛洲禅師大和尚

 本日9月19日は今年は彼岸の入りに当たりましたが、先々代住職の東明和尚の命日でもありましたので、朝のお勤めで大悲呪一巻を上げ、回向いたしました。
 たまたまですが、昨日事務室の掃除をしておりましたら、東明和尚の略歴が出てまいりました。これは先代の手によるものですので、おそらくは東明和尚の葬儀の際に、印刷して配布したものの元原稿なのでしょう。あらためて読んでみますと、「我がじいちゃん」ながらすごい人だなぁと思わざるを得ませんでした。
 明治36年生まれで、14歳のときには僧籍を得て(お坊さんになり)、関西大学卒業後、愛知県の徳源僧堂に掛塔(入門)。修行中にご縁があり善信寺十五世邦山和尚の弟子となり、後、昭和6年に28歳で善信寺住職となっております。昭和19年に「応召、静岡連隊入隊」と書かれていますが、身体があまり丈夫でとはなかったようで、戻されて後に軍属となったと聞きました。昭和20年6月18日の浜松大空襲で全堂消失とありますが、この後の活躍がめざましく、昭和22年にはひくま幼稚園を興し、昭和26年には仮本堂を完成させ、昭和49年には再度本堂を建設いたしております。
 本堂建設という事業は住職数代に一度の大事業で、その事業を為し得た和尚は「中興」もしくは「再中興」という称号を得ますが、一代で二度の本堂建築とはまさに度肝を抜かれるような話です。もちろん檀信徒の皆様からのご厚志の賜物であることにかわりはございませんが、それでもすごい話です。
 幼稚園も最初は木造園舎でしたが後に鉄筋作りに建て替え、鉄筋作りの園舎は浜松市内の私立幼稚園の中では一番であったとか…。また通園バスの導入も市内で一番であったように聞かされております。おとなしそうな容貌からは今では想像がつきにくいのですが、とてもバイタリティのあった人らしく、良くも悪くも「商才に長けた人」であったとも聞いております。鈴木康友知事は「よくお前のじいさんに本堂で叱られた」とおっしゃいます。教育熱心な人でもあったのでしょう。
 その偉大なる先達の創立したひくま幼稚園をやすやすとつぶすとは…。情けない孫です。せめてしっかりと善信寺の継承は為さねばなりません。

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